CDの作り手と聴き手の間

クラシックオタクに捧げる私的ブルックナー考として

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おすすめのクラシック音楽は何かと問われたら、私はブルックナーだと、すぐに答えることはできないだろう。頭に様々な要素を思い浮かべ、相手を凝視した末に、おそらくは他の作曲家の名前を口に出すに違いない。

そんなことを口走ったら、もう後戻りできない場所へ踏み込んでしまうのだ。

言えない。言えない。

王様の耳はロバの耳。私はブルックナーが好きなのだ。

 

 

ブルックナーだからさ。

アントン・ブルックナーが生まれたのは、ベートーベンが第九を作曲した1824年のオーストリアである。

幼少時代から音楽的な才能を発揮し、オルガン奏者であった父のあとを継いで演奏を行い、また作曲法についても多くを研究した。

ウィーン国立音楽院の教授まで登りつめ、1896年にその生涯を閉じるが、それはやはり交響曲第九番の呪いのせいかもしれない。

交響曲を書いた作曲家は、九番を最後に亡くなってしまうという俗説は、未完成でも容赦ないのかということはさておき、ブルックナーにも当てはまっているようだ。

ブルックナーの建設的で独特のクセを持つ楽曲は、「ブルックナー終止」、「ブルックナー休止」などと特徴付けて呼ばれ、現在でもクラシック音楽愛好家のブログやFacebookの投稿には、そのバロディ用法も使われるようになっている。愛されている作曲家なのだ。

そんなブルックナーを好きだと正直に言えない、私の心の弱さをいつか書かねばなるまいと、この連載を始めてから、ずっと思い詰めていたことを告白しよう。

私は”ブルヲタ”の皆さんから逃げ回っているのだ。

クラシック音楽愛好家の世界で双璧をなすワグネリアンとブルヲタの皆様とは、私などは距離を置かざるを得ない。私などはその足元にも及ばない、ただの一ファンである。

ブルックナーは確固たる偏愛性を呼び起こし、多くの熱狂的なファンを持つ作曲家である。

そう、簡単に言ってしまえば、ヲタクホイホイなのである。

見せてもらおうか。ブルヲタの性能とやらを。

ブルックナーが演奏されるコンサート会場で、「やっぱり今日の指揮者はハース版を使ってきたね。」「いや、ノヴァーク第2稿が最高だね。この指揮者はわかってないな」などという暗号めいた会話を耳にしたことはないだろうか。

交響曲のスコアを見ながらCDを聴くのが当たり前のクラシックオタクをさらに凌駕する、ブルヲタの真骨頂がここにある。

今聴いている交響曲がどの版なのか、そしてさらにその何稿なのかを”楽譜なし”で言い当てられるだけにとどまらず、何楽章目の第何小節目に使われた楽器のミュートに至るまで、当たり前のように話題に挟んでくるのである。

さらには「み・れ・ど。だったね。」「うむ。み~れーど。かと思ったね。」などという、おそらくはその三音の奥深い世界観を共有出来るものの間でしか成立しないような会話を繰り広げていらっしゃる。

ブルヲタの世界へようこそ、とは決して腕を広げて歓迎してくれない雰囲気が、これでもかと漂っているのである。

 

見えるぞ!私にも改訂が見える!

ブルックナーが、交響曲を書き始めたのは齢40を過ぎてからである。

作曲家として社会的な地位をしっかり固め、やっとの思いで交響曲に着手するには、相応の自信や自分への期待もあったであろう。

しかしながら、最初の交響曲は番号もつけられず(のちに0番とされる)、その他9曲の交響曲も、初演の反応が悪かったり、誰かに批判されたりするたびに、ブルックナーは改訂を続けた。楽器を変えたり、和音を変えたり、とにかく長い時をかけて書き換えを行なった。

さらには自身の改訂だけでなく、出版される際の工程でどの稿が採用されたかなどの理由で、「同じ交響曲なのに内容が若干異なった楽譜」がいくつも存在することになった。

このため、その差異を判別し、別バージョンの演奏を追い求め、そこに音楽的な意味合いを見つけようとする熱心なファンが現れることになる。

切手コレクターがその年代別の印刷の違いを熱心に語るとき、またあるいは、瀬戸物の釉薬と釜の温度差でできる色の変化について骨董ファンが語るとき、そこに価値を見出せないものにとっては異言語の物語を聞いているようにしか思えない。

ブルヲタもかくありき。

コレクターやフリークが現れるには、知識欲を刺激し、膨大な情報をストックし、微細な違いを判別できるようになるという自意識をくすぐり、達成感を得られる土壌が必要である。

その点において、改訂を繰り返し、多くの版違いが出たブルックナーは、他の追随を許さない稀有な作曲家になったのである。

交響曲をゆったり全部聴いてみて、全体としての雰囲気を、ぼんやり味わって納得しているような私などは、ブルヲタの皆様の努力の前で、襟を正してその講釈を聞くしかしかあるまい。

だからこそ、大きな声でブルックナーが好きだと言えないのだ。

こっそり家でCDを聴いて、こっそり胸を熱くしている”隠れブルックナリアン”なのである。

 

認めたくないものだな。自分自身がブルヲタだということを。

しかし今、私はブルックナーの肖像画を見ながら、こう語りたいとも思う。

あなたが自信をなくして書き換え続けた曲は今、多くのファンによって、その差異自体から価値を見出し、あなたが本当に伝えたかった何かに、皆して迫っているようですよ、と。

これほどまでにひとつの楽曲に思いを馳せて、なぜここを変えたのか、どちらがより良い音になったのかと、

音楽家だけでなく、聴衆者側でここまで考えてもらえるのは、ひょっとして音楽史上あなたしかいないかもしれませんよ、と。

ストーリー性もなく、反復は執拗で、いつも同じように始まり、全部同じ曲にしか聞こえない、泣きたいほどに切ないアダージョを含めたあなたの交響曲は、

それでもなお、調性の中に音で構築された建築物のような、ただそこにある美を、まるで螺旋階段を登るかのような退屈の中に示した、ただ一つのものだったのだと。

 

今ここで私は高らかに言おう。

私はブルックナーが好きだ。大好きだ。

差異はわからないけど、それでも。これからも。

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渋谷ゆう子

作曲家・渋谷牧人のレーベル「Nomius Nomos」マネージングディレクター。アルバム制作や演奏会企画運営を手がける。プロアマを問わず演奏家とのつながりが深く、自主制作アルバムの支援も行っている。ワルター/ウィーンフィル/マーラー9番/1938年がお気に入り。3児の母。

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