クラシック音楽は難しいけれど、知れば知るほど興味深い世界である。素人同然の私がクラシック音楽の世界に踏み込んで見聞きした、面白い話、驚いたネタを今日は少しご紹介したい。
ヴァイオリンと弓はセット売りじゃない
ストラディバリウスというヴァイオリンの名前を聞いたことはないだろうか。
イタリアのストラディバリの工房で1600年後半頃から作られた弦楽器である。日本では高嶋ちさ子さんが2億円で買ったり、法人所有のものをこれと見込んだ演奏家に貸し出したりしている。
一番高い値段がついたのは12億円とも言われ、そんな話があるから、またクラシック音楽はお高くとまってる、などと言われてしまう。実際お高いのだが。
それはそうと、私が一番驚いたのは「そのウン億円に弓はついてない」ということだ。
ヴァイオリンを弾くんだから、弓がいるでしょうよ!?と思うのは全く素人考えであるらしい。
そこは天下の別売である。セット価格でお得になったりはしない。
弓は弓でまた別の職人が作っていたりして、数百万から一千万円を超えるものもある。何度もいうが、「弓だけ」の値段が、である。下世話な話ですみません。
ピアニストはオーケストラ団員ではない
もう、本当にすみません。業界関係者は読まないでください。
オーケストラといえば、ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、打楽器いろいろ、ここまでがオーケストラの主な楽器奏者である。
ピアノ協奏曲などを演奏する際にオーケストラにいるピアニストは、ゲストなのであった。
オーケストラを運営する法人に属した団員ではない。
今になったら当たり前に思えるのであるが、それに気がついた時は「あは!」でありました。
指揮者がいなくてもオーケストラは演奏できる
指揮者が変わると音楽が違うってどういうことですか?とよく質問されるが、そもそも指揮者なしでもオーケストラは演奏できる。
では、どうやって息を合わせているかというと、コンサートマスターが基準になっている。指揮者の左側、一番客席に近いヴァイオリン奏者のことである。
コンサートマスター(男性の場合)やコンサートミストレス(女性)は弓の動きや、目線などで団員に伝えている。オーケストラの中の最も重要なリーダーということだ。(だから当然ギャラも高い。)
指揮者の動きが気に入らない、伝わりづらいなんていう場合に、オーケストラは指揮者を見ないで、コンマスと合わせているプロオケもあるとかないとか。あるとかあるとか。
オーケストラ用語にもある短縮系
「たこご」「しべに」「まらく」さらには「どぼはち」。これが何かというと全部作曲家と交響曲の番号である。どことなく江戸前の香りがするような気がするのだが。
「ショスタコーヴィッチの5番」「シベリウスの2番」「マーラーの9番」「ドボルジャークの8番」といえばいいのに、っていう話であるが、そこは何でも短縮したがる日本人。クラシック音楽業界も同じでなのであった。
ちなみに、「九番」とだけ、短縮しないでばしっと言ってもらえるのは、ベートーベンの第九だけなんだそう。やっぱり偉大な9番なんですね。
作曲は思いつきとセンスでやっているのではない
作曲をする夫を間近で見て初めて気がついたのだが、作曲はインスピレーションでなんとなくやっているわけではなかった。
ピアノを弾いてみて、雰囲気で作ったりするのかと思いきや。
そこには、音楽理論という裏打ちがあり、作曲法という音楽メソッドによる技術によるものが大きいそう。
特にクラシックは作曲から編曲まですべて一人が行うことが前提なので、雰囲気で打ち込んで音源だけが作れたところでどうにもならない。
和音についての和声法、旋律と旋律の関係を学ぶ対位法、それぞれの楽器を知る管弦楽法があり、フーガやらカノンやらと続き、さらにはさまざまな年代の作曲家のスコアを読み込んで初めて、その技術の基礎が身につくらしい。
やっとその次に、才能やセンスといった個人の器の問題になる。
天才的なメロディメーカーだとしても、それを音楽として完成させるためには、作曲家も技術と理論を身につけなければならないのであった。
クラシック音楽のコスパ悪い話
さて、最後にやっぱり下世話にもお金とコスパの話である。
「クラシックはコスパ悪い」と、実際に口にされている場面に出くわしたことがある。
一人の演奏家を育てるのにいくらかかるだの、やれ楽器がいくらだの、先生へのレッスン代がいくらかかるだの、留学費用がどうだのと、クラシック音楽に対するお金の話になると、とたんにセレブ羨望じみた、いやみな雰囲気が醸し出される。
たしかにそこだけを見ると、コスパ悪いと言われても仕方がないのかもしれない。
特に演奏家は、幼い時から毎日毎日練習を重ね、ほぼ人生のすべての時間を音楽とともに歩んできたと言っていい。それでもプロの演奏家になれるのは、ごくごく一部である。さらにプロになっても、そのスキルと音楽的な才能を日々研鑽し続けている。まったく頭の下がる思いである。
しかもプロ奏者の全員が、かけてもらった費用を回収できるわけでもないのにも関わらず。
コスパ悪い。確かに。
ではなぜ非効率的で費用対効果の低い、西洋の昔の音楽に発したこの音楽芸術分野が、今も東洋の端っこで継承され続けていいるのだろうか。
そこには、「支出した費用に対して得られた満足度の割合」だけで語れない価値があると考えられるのではないだろうか。
クラシック音楽に魅了され、演奏者になりたいと思う人々、作曲家、そして観客。
それらすべての人々が、偉大な音楽の歴史の一筋の道に自分もいるのだというプライスレスな価値観を共有しているからに他ならない。
クラシック音楽は芸術である。費用対効果だけでは語れない分野なのだ。
興行収益、法人運営や音楽教育費用の業界的な改善点はあるにせよ、そのプライスレスな人間の思いを、今はまず、多くの人に共有してもらえたらと私は思う。
私もやっとその扉を開けただけの、にわかファンの一人である。
まだまだこれからも多くの驚きや、面白さに気がつくだろう。どこまで行っても知らないことばかりの大きな世界だ。奥の深さ、懐の深さがクラシック音楽にはある。
あんな美しい曲を多く残したモーツァルトは、「オレの尻を舐めろ」という曲も作り、仮面被ってやってきた貴族の言うなりにお金をもらってレクイエム書こうとして途中で死んじゃって、墓がどこにあるかすらわからないし、
イケメンのリストは女性問題多すぎるし、
ぶよぶよだの干からびた胎児だの、サティの楽曲はタイトルがいちいち気持ち悪いし、
ムソルグスキーはアル中である。
そこに加えて楽曲への理解を求めていくと、もうどこまでもそれは続いてしまう。
一旦興味を持って調べ始めたが最後、いつまでもその探求を続けられる土壌がクラシックにはあるのだ。
さて今日もまた、私はそんな世界の端っこで音楽を楽しむことにする。
聴いていない曲だってまだまだ山ほどあるのだし。