「渋谷さん、その話めちゃくちゃ面白いですよ。」ninoyaの古越社長は言った。
クラシック音楽の雑学的な話題を仕事の打ち合わせの合間に挟んで、その場を和ませようとした時のことだ。
エリーゼのためじゃなかった話。吹奏楽とオーケストラは全く違う分野だという話。
そして作曲家が普段どうやって仕事をしているのか。
そうだった。私自身もそんな話を嬉々として聞いていた時期があったのだ。
夫のチェロの値段を知って、けんかをしたらそれだけ持って逃げてやろうと思ったこと。(なんなら弓だけでもいいと思った)
オーケストラのスコアにパート譜がついてないことがあるなんて知らなかったこと。
スコアを楽器ごとに横に切り、ひらひらと細長い紙にして、その裏にアラビックヤマトをつけすぎたりしたこと。
楽譜を止めるマスキングテープが欲しいと言われて、やたら可愛い柄のものを夫に渡して嫌がられたこと。
そんな小さな出来事に笑い転げたことも今は、すっかり新鮮さを失ってしまっていた。
日常に紛れて忘れかけていたそんな過去の私と、今の音楽業界での仕事に焦点を当ててもらい、この連載が始まったのだった。
ブログを始めて変わったこと
連載が進むにつれて、大きく二つの変化があった。一つ目は、演奏家の皆さんに私のパーソナリティや仕事の方針をより深く理解してもらえたことにある。
演奏家が自分のフィールド以外に対する不安を、少しでも小さくしてほしいという思いから記事を重ねた。その姿勢はそのまま、私の普段の仕事の仕方に通じている。
ブログにそんなことを細かく書いたおかげで、私の仕事ぶりに納得していただける機会が増え、結果として本業がやりやすくなった。
これはこのブログの最も大きな成果である。
普段の業務の中では、なかなか時間を割いて思いを語るような場には恵まれない。限られた条件でなんとかします、という姿勢だけしか評価してもらえない場合も多い。
しかし、こうしてブログで細かく表現することによって、私自身が口で語る以上の思いをお伝えできたように思う。
ブログで読みましたと言ってくださる演奏家も多くいらして、本当にありがたい思いでいっぱいになる。
渋谷さんのブログを読んで安心しました、と言ってもらえたこと、それは何より嬉しかった。
一方で、過去の私自身のようにクラシック音楽についてあまり詳しくない方々からは、音楽の授業よりも面白いです!なんて言ってもらえたり、もっとクラシック音楽を聴いてみたいと思いました、という感想をいただいたりして、微力ながら業界の端っこをちょっと引き伸ばせたかなと思っている。
お堅い、敷居が高いと思われがちなクラシック音楽だけれど、本当はもっともっと人間的で(当たり前か)、心に寄り添っている音楽なのだと知っていただけたようだ。
ブルックナーのCD買ってみました、なんてメッセージを頂くと、嬉しい反面、「ダイジョウブそれ?」と心配になってしまったりもしたけれど。
(そのうちスコア買いましたなんて言われたらと思うと、怖くて怖くて震える。)
半径3メートルの以内の非常識
一緒に仕事をしている仲間、家族や近しい友人など日々顔を見合わせる間柄。
お互いの表情を汲み取れて、会話ができて、そしてきちんと気配が感じられるのは自分の周り3メートル以内だと言われている。
そしてその3メートルの中では、習慣があり、共通認識があり、その世界ならではの常識が存在する。
だから、その中にいるだけでは、どんなに外の世界と認識が違っていてもそれに気がつかなくなってしまうのだろう。
音楽家の世界に入り込んでしまった当初私は、その中で異端だった。
常識という共通の知識に欠けていて、いちいちひとつのことに驚き、新鮮に笑い、そして感動した。
何かわからないことがあると無邪気にも、そして不躾にも質問を繰り返し、疑問を投げかけた。
半径3メートルの中で非常識だったことが、私のアイデンティティだったのだ。
このブログを書きながら、私はそんなことを思い出していた。
常識と思っていることが実は、たった3メートル離れただけで全く違う見方をされるのだということを。
自分たちの常識は、一歩外に出たら全くの非常識であったということを。
私はこれからもずっとこの場所で、非常識な視点を持ち続けていたい。
常識を疑ってかかり、面白さを発見し、そしていつも新鮮な何かに感動できるようでありたい。
24回という文章を重ねたことで、私はもう一度原点に帰ることができた。
また、一から楽しめる。今ならそうできる。そんな思いでいっぱいである。
そんな素敵なきっかけを作ってくださったninoyaの古越社長をはじめ、校正を担当してくださったスタッフの鈴木さんにもここで感謝の意を述べたい。本当にありがとうございました。
もし、あなたがninoyaブログの読者で寄稿をお考えなら私は迷わず相談されることをお勧めする。
さて最後に、夫であり、作曲家である渋谷牧人の曲を紹介したい。
この曲は、私が夫の作曲風景を間近でみた初めての楽曲である。
狭いマンションで一緒に暮らしはじめたころ、ベットルームにしか小さな電子ピアノを置けなくて、夜中に先に眠る私の横で、夫はヘッドフォンをつけたまま、コリコリと鉛筆を動かしていた。
どんな曲を作っているのかすら私にはわからなかったけれど、夫の背中を見ながら、出来上がりを毎夜待ち続けていた。
そしてこれは、私が会社を辞めて独立し、夫のレーベルを作ろうと決意した楽曲でもある。これまでの思いを込めて、ここで最後にご紹介したい。
それでは、また。いつかどこかでお会いできますことを。
読んでくださった全ての皆さんに感謝して。
渋谷ゆう子
渋谷牧人『A Poetic Piece』
https://youtu.be/H-SwLAAH7II