ネットは階級を固定する道具です。「階級」という言葉が強すぎるなら、あなたの「所属」と言ってもいい。世代、会社、趣味……なんでもいいですが、ひとが所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め、固定し、そこから逃げ出せなくするメディアがネットです。
昨年、Twitterやブログ周辺で話題となっておりました、東浩紀(@hazuma)さんの著作『弱いつながり』。ざっくりと言えば、「書を捨てよ町へ出よう」の“書”を“インターネット”に置き換えた内容ですが、切り口はさまざま。
ネットの使い方、個人を規定する“環境”の話、異国の地を訪れることで得られる経験など、多方面から論じています。多くのテーマ性をはらんでいるため、読む人によって異なった感想を持つのではないでしょうか。
そんな本書より、メイントピックとなる「インターネットの使い方」について。
インターネットでは、見たいものしか見えない
検索ワードは、連想から生じてきます。脳の回路は変わりません。けれどもインプットが変われば、同じ回路でもアウトプットが変わる。連想のネットワークを広げるには、いろいろ考えるより、連想が起こる環境そのものを変えてしまうほうが早い。同じ人間でも、別の場所でグーグルに向かえば、違う言葉で検索する。
自分を変えるためには、環境を変えるしかない。人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない。
本書には「検索ワードを探す旅」という副題がついていますが、一冊を通して語られているのが、この「検索ワード」です。
インターネットでは、Googleの検索窓に自分の知りたいことを入力すれば何でも教えてくれる、知ることができると考えられているけれど、実はそんなことはない。その「検索ワード」は自分の連想によって生まれたものに過ぎず、劇的な変化をもたらすものではない。
本の前半ではこのように、徹底的に「インターネットの万能性」を否定しています。
ネットには情報が溢れているということになっているけど、ぜんぜんそんなことはないんです。むしろ重要な情報は見えない。なぜなら、ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができないからです。そしてまた、みな自分が書きたいと思うものしかネットに書かないからです。
特に最近は「ネットサーフィン」という言葉も聞かなくなり、むしろインターネットの閉鎖性を指摘する言説をよく目にするようになっています。
FacebookやTwitter、その他のSNSやニュースサイトなど、それぞれの「アプリ」という「部屋」にこもってしまっているようなイメージ。ハイパーリンクを辿り、多種多彩なホームページを訪れて回るような機会は減ってきたのではないでしょうか。
まだ見ぬ「言葉」を探す旅に出る
そこで著者が勧めているのが、一度、インターネットから離れて「旅に出る」ことです。
インターネットを完全に絶つのではなく、デジタルデトックスを実践するのでもなく、インターネットにより深く潜るために、自分自身のインプットを増やすこと。
言葉にできないものを言葉にすること。そのために大事なのは、まずは言葉にできないものを体験すること、つまり「現地に行くこと」です。そして、できるだけ多くのひとに訪れてもらうためには「観光地化」は欠かせない。
重要なのは、言葉を捨てることではなく、むしろ言葉にならないものを言葉にしようと努力することです。本書の言葉で言えば、いつもと違う検索ワードで検索することです。
今やネットの情報はユーザーごとに最適化され、「その人が知りたいだろう情報」を予測して表示するようにまでなっています。
それはそれで便利なものですが、そこにあるのは必然的な出会いでしかなく、「そういうのもあるのか!」という偶然の出会いはありません。それでは世界は広がらず、自分のインプットを増やすことにもつながらない。
だからこそ、外部から「言葉」のインプットを増やすことによって、自分の目にする「インターネット」の世界を広げよう、と主張しているのが本書のメインテーマだと、僕は読みました。
検索ワードを探す旅とは、言葉にならないものを言葉にし、検索結果を豊かにする旅のことです。そしてそのためには、バックパッカーでなくても観光で十分、いやむしろ、世界中が観光地化し始めているいまこそあちこちの「秘境」に出かけるべきだ、とぼくは思うのです。
まったくの新しいモノを探しに行こうとするのなら、そこにインターネットや本といった情報媒体は必要ありません。もちろん、その「旅」を便利に、最適化させようとするのであれば、現地情報を知ることのできるそれらメディアは便利なもの。
しかし、そうした便利さと引き換えに、失っているモノもある。それこそが、本来的な「旅」で得られる生きた経験であり、世界を広げる「価値観」といったモノなのではないでしょうか。
莫大な情報がもたらしてくれる「必然」を排除し、「偶然」に身を委ねる。
たまにはそのような時間があっても良いんじゃないかと、僕はそう思います。